■寅彦帳 過去帳(2)■
■2006.04.30 【『新潮日本文学アルバム 夏目漱石』】
図書館から借りてきた『新潮日本文学アルバム 夏目漱石』を愛でているところです。ムフフ。20世紀初頭前後の襟の小さなイギリス式の仕立てのスーツが好きです。
A5版ほどの小さな本なのですが、写真が多くてうれしい。見たことのある写真も多いのですが、コンパクトに1冊にまとまっているので、家にも1冊欲しいくらいです。(ちゃ、ちゃんと返しますとも!)
■2006.04.28 【宮地正人、佐々木隆、木下直之監修『ビジュアル・ワイド 明治時代館』 小学館】
ここ数ヶ月の夏目・寅彦熱以前から戦前の日本や世界に興味はあったので、『ビジュアル・ワイド 明治時代館』という本が発行されるというポスターを書店で見かけてからそわそわしていたのですが、当時は無職でお金が自由にならなかったため保留にしていました。ページ数や内容からいったら高くはない値段なのですが、安くもないのよねぇ…。最近はすっかり忘れていたのですが、ある方面から寅彦が出ているという情報をいだだき、あわてて図書館に行って調べてみました。結果→載ってた! 明治の科学者5人を特集した見開き2ページの特集ページの右下に寅彦の姿が! ベルリン留学時代に撮ったおヒゲがくるんと愛らしい写真! わぁい!
ちなみに、科学者5人というのは、北里柴三郎(細菌学)、高峰譲吉(理化学)、牧野富太郎(植物学)、長岡半太郎(物理学)、そして寺田寅彦。寅彦や牧野って明治というより大正とか昭和のイメージが強い気がするのですが…まぁ、登場の場が増えることは喜ばしいことなのでよいです。それにしても、寅彦のすぐ上に長岡が掲載…私としては微妙なのですが…。中谷の書いた話がどうも思い出されて…。
長岡先生と寺田先生とは、学問のやり方でも、対世間的のすべての点でも、まるで正反対のように、一般に思われている。事実、外から見たところは、その世評のとおりである。そして外から見たいわゆる皮相の観が、案外ことがらの真をついていることが多い。両先生の仲は、決して良かったとはいえない。(中谷宇吉郎著「長岡と寺田」昭和26年3月/『中谷宇吉郎集』(第6巻、P312)より)
この「長岡と寺田」には地震研究所の談話会の席上で物理学の大家である長岡が大気焔をあげた後、「御質問御討論がありましたらどうぞ」と言ったのに対して、まわりが黙り込んでいる中、寅彦がすっくりと立ち上がって「先生の今日の御講演は、全く出鱈目であります」と反論したという、緊迫感のある内容でした。2人について詳しく研究したわけではないのですが、あまりにもその話の印象が強かったため、同じページに掲載されているのを見ると「え、隣にしちゃっていいの…?」と思わずにはいられませんでした。それでも、尊敬すべき点についてはお互いに認め合ってはいたようです。
しかし両先生とも、何といっても、大正昭和の日本における傑出した学者であった。お互いに尊敬すべき点は、ちゃんと尊敬し合っていられた。寺田先生は、あのとおり、どんなつまらない人間でも、その長所は十分に認めるという性質であった。いわんや長岡先生のような卓越した大先生の学問には、十分の敬意を払われた。そして長岡先生のあの性格の強さを、武士道の名残として多いに尊敬しておられた。
一方長岡先生は、滅多に人に負けない方であったが、やはり見るべきところは、ちゃんと見ておられた。その一つの現われであるが、寺田先生には、ある点では、一目置いているという風があった。寺田先生が大学を出られて、まだそう長くない頃のことである。水産講習所の兼任講師に寺田先生を推薦されたことがあった。その時長岡先生が「絹ハンカチで鼻をかむようなものだが」といわれたという伝説が残っている。(同)
私が知る長岡というのがこの「長岡と寺田」というたった7ページほどの文章と『ビジュアル・ワイド〜』でのちょっとした経歴紹介部分に限られているのですが、それだけでもこの2人は本当にタイプの全然違う学者、性格・性質だと思わされます。中谷は実際にその場にはいなかったそうですが(伝え聞いたものを書いた)、長岡と寅彦の緊迫感に満ちたやり取りは、読んでいてこちらまでひやひやさせられるというか、胃がキリキリするような感じがするというか…皆さんにもぜひご一読いただきたい!
中谷はこの2人について、この文章で以下のようにまとめています。長岡と寅彦を知る人として、当時の物理学に関係していた人として、非常に興味深い感想であると思います。同時に、当時の雰囲気が伝わってくるようなリアルな感じに、長岡と寅彦両人の人柄というか、一面に、触れられたような気になります。
それから最後に、この話を今まで何人かの友人にしたが、たいていの人は、「寺田先生も傑かったが、やっぱり長岡先生も傑かったなあ」という。私もそのとおりだと思う。当時の長岡先生の学会における地位と権威とは、開戦当初の東条首相にも比すべきものであった。そういう大先生が、大ぜいの子弟子や孫弟子たちの面前で、これだけ手ひどく、いわばやっつけられたわけであるが、感情的に激昂されるというようなことは全然なかったのである。そしてこれだけの大事件があっても、後になってそれがあとをひくというようなことがほとんどなかった。日本の学界のためには、慶賀すべきことであった。(同、P318)
本当、こういうことがあったら普通後でひどい目にあわされますよね…左遷とか、色々。そう考えると、長岡ってすごいかも!(いや、それ以前にもすごい先生なのですが。)
それにしても、この『ビジュアル・ワイド〜』のくしゃみ先生の年表というやつは、あまりにも夏目のことですね。例の方面から情報をいただいていたのですが、予想よりもはるかに多いページが費やされていてびっくりしました。一応夏目漱石の人生をもとにしたフィクションだという表記があるようなのですが(最後の方に小さく)、それにしたって夏目のことですね。いくらくしゃみ先生だと書いてあっても、ぱ〜っと読んだだけですが仲根鏡子と見合いだとか、寺田寅彦来訪だとか、そういった固有名詞が多く出ていて、明らかに夏目じゃん…と思わずにはいられないのですが。夏目の人生があの時代の典型的なものとは思えないし、だったらいっそのことフィクションだとうたわないで夏目の年表にしてしまうか、夏目ではなくまったくのフィクションとして「明治人」をつくるか、どちらかにしてしまったほうがさっぱりするような気がするのですが。どうなんでしょう? まぁ、くしゃみ先生の年表はともかく、当時の世相が図版で紹介されているのはわかりやすいし、嬉しいです。図書館にあるからあえて買わなくてもいいかな、というのが今の気持ちです。
■2006.04.28 【更新頻度低下について/言い訳】
最近更新頻度が落ちているのですが、寅彦が嫌いになったというわけではなく、違う方面にちょっと浮気をしていたというか、興味が分散していたというか(よくある)、近所で遊んでいたつもりが気づいたらずいぶん遠くまで行ってしまって迷子気味だったというか、主にそういった感じでした。以前のような狂ったような読書の仕方ではなく(たまにある)、寝る前に落ち着いてぽつぽつ読み進めるようになったので(ままある)、読書の速度が少々落ちておりますが、むさぼるではなくじっくり味わう方向にこのまま少しずつ移行していくかと思われます。まぁ、あわてて読むものでもないので…。
書きたいことはちょこちょこあるのですが、もうちょっと調べたいと思ったり、時間をとって落ち着いて書きたいと思ったり、ところが仕事から帰るとついついバタンキューだったり、そういうのを繰り返していたらこの有様です。すみません。そんなわけですが、この「寅彦帳」も時間のできたときにぽつぽつ更新していく予定ですので、思い出した頃に見ていただけたら嬉しく思います。
「最近、寅彦熱下がってきた?」と思いながら図書館をぶらぶらしていたのですが、四国のガイドブックをちょっと手に取ったら「ここも行きたい! あぁ、こっちも!」という風に内心興奮(図書館内は静粛に)。夢膨らみますね! ガイドブックおそるべし。
■2006.04.18 【中谷宇吉郎著 『中谷宇吉郎集』全8巻 岩波書店】
中谷が書いた寅彦についての話の題名、主なものをメモ。(単に名前が出ているだけのものはとりあえず省略。他に見つかったら後で追記したいと思いますが、とりあえず今日わかっている分だけでも。)
第1巻:寒月の「首縊りの力学」その他、「光線の圧力」の話、冬彦夜話―漱石先生に関する事ども―、寅彦夏話、線香花火、霜柱と白粉の話、球皮事件、指導者としての寺田先生、文化史上の寺田寅彦先生、先生を囲る話、「先生を囲る話」について、続 先生を囲る話
第4巻:寺田先生の追憶―大学卒業前後の思い出―、「茶碗の湯」のことなど、札幌における寺田先生
第6巻:私の履歴書、長岡と寺田
第8巻:桂浜、寅彦の遺跡、天災は忘れた頃来る、線香の火、写真と暮した三十年
夏目先生&寅彦関連でしたら、是非とも第1巻をお読みください。寅彦が中谷をはじめとする学生達に語った口調が再現されているようで、なんともほほえましい話が多いです。寅彦の話したことを思い出しながら、(おそらく)当時のままに再現するように描写し、文章として残したところが中谷の偉大なところだと思います(寅彦ファンの私にとって)。たとえば、「先生を囲る話」には次のようなことが。
夏目先生が『猫』の最初の原稿料だったか、二十円位はいってくたことがあったが、先生あぶく銭がはいったのでとても嬉しくてどうしようかと色々考えた末、丸善かどこかへ出掛けて行って、水彩画の絵具一式と、ワットマンか何かの引き裂くと絵葉書になる紙を綴ったのを一冊と、それから象牙の紙切りナイフとを買ってこられたことがある。きっと平生から欲しいと思っておられたものを買ってこられたんだろう。(原稿料というものは)ちょっとそういう気になって楽しみなものだよ。
こういった文章を読んでいると、中谷と一緒に寅彦の話を聞いているような気分になります。それと、夏目先生の思い出を学生に話してたんだなぁと思うと、嬉しくなります。「冬彦夜話」では、夏目先生からの手紙を見せながら追想談をする寅彦の姿も。
高等学校時代に貰った手紙は、僕はこんなことには案外括淡だったもので、家の手紙と一緒にしておいたものだ。ところが父が急に死んで、手紙を皆燃してしまったことがあって、その時一緒にみんな燃してしまった。今でも惜しいことをしたと思っている。『猫』を書かれる前の先生は、まだちっとも世間的には知られていなくて、弟子といってもまあ僕一人位だったようなものだった。『猫』が出て、小宮豊隆君がきて、確か小宮君が三重吉をつれてきたんだったかなあ、何にしても初めは、先生も随分切りつめた淋しい生活をしておられたもので、それだけにその時代の記念になるような手紙を皆燃してしまったのは随分申訳ないことをしたものさ。
あぁ、その手紙、燃してなければなぁ…(惜しい)。
■2006.04.14 【トミー!】
高知県つながりということで、図書館の牧野富太郎の本を借りてきました。いつか高知市に行ったら、高知県立牧野植物園に絶対行くんだ! と鼻息荒い今日この頃。ご本人は「翁」とか「老」とか呼ばれるのを嫌っていたそうなので、私の中で愛称は「トミー」に決定。トミー、若い頃男前だよ! お坊ちゃんだし(若い頃限定)! 戦前のまん丸めがねのおじさんトミーも好きだ〜!(ちょっとハネケン(羽田健太郎/ピアニスト)に似ていると思う。)
「富太郎」っていうわりに貧乏ぐらしだったのね…。貧乏子沢山とはいうけど、子供13人て…。初めて著書を読んだのですが、ノビノビ、アッケラカンと綴っている印象。それにしても、何かにつけて自然体過ぎる気が…そこが魅力なんだろうけど。
『草を褥に木の根を枕、花を恋して五十年』(五十年といえども、この恋はまだ醒めない) (牧野富太郎)
どんなに機嫌が悪くても、目の前に植物を持ってくるととたんにご機嫌になったそうな。そんなトミーが大好きです。
■2006.04.13 【明治34年の寅】
小林惟司著『寺田寅彦の生涯』に明治34年の寅彦の写真が載っています。ネルシャツの袖がのびてたる〜んとなっている…。写真の裏には寅彦の筆で以下のように書いてあるとのこと。
場所 本郷五丁目近藤の二階
人間 理科大学二年生
室内の雑品 油絵の額、薬瓶、佃煮入の壺、本棚、中天狗〔煙草〕、毛糸、日本新聞、ヴァイオリン、破れ袴等
明治34年というと、寅彦数えで24歳。5月に長女の貞子が誕生、肺尖カタルで1年休学した年。前年には夏子吐血。
■2006.04.10 【寅彦じゃないよ、利正だよ☆】
戦争やら政治やらが苦手なので、いわゆる「歴史の勉強」に苦手意識があり、寅彦の父・利正について調べることから逃げていたのですが、ある方面から色々と情報をいただいたのでそのまま利正の色々に関して無視を決め込むこともできず、ついに休日に腰をすえて「エイ、ヤー!」と資料を精読してみることにしました。その成果をちょっと書いてみたいと思います。ただし、幕末とか、土佐藩とか、新撰組とか、そういった関係のものについてかなり暗いので、間違って認識しているかもしれません。それから、読んだ資料も少ないので、偏った見地からの情報を鵜呑みにしている部分もあるかもしれません。そういった点について気が付きましたら、メール等でご教示くださると嬉しいです。(他人任せだなぁ。)
えーと、以下チョット長くなります。利正に興味のない方はかったるいかもしれません。ほとんど自分用のメモです。そしてほとんど抜書き。私の文章ではよくわからない方、もっと詳しく知りたい方は、小林惟司著『寺田寅彦の生涯』(東京図書/1995)の「厳父――利正」(*1)、寺田東一他著『父・寺田寅彦』(くもん出版/1992)の寺田東一著「利正のことなど」(*2)を中心的な情報源としましたので、そちらをお読みください。年齢は数えで表記しました。
□寺田利正 幼名「知己之助」 のち「知己魔(ちきま)」 利正と称したのは明治になってかららしい。(*2)
天保8(1837)年9月19日生。父・宇賀(うか)市良平、母・峯の次男として高知市本丁4丁目で誕生。兄・正巳(まさみ)、姉・伊嘉(いか)、弟・喜久馬(きくま)。
安政元(1854)年、寺田家に養子に入る。
安政4(1857)年、寺田家の一人娘・亀と結婚(利正21歳、亀15歳)。子供は駒(女/安政6(1859)年生)、幸(女/慶応元(1865)年生)、繁(女/慶応3(1867)年生)、寅彦(男/明治11(1878)年生)の4人。
大正2(1913)年8月17日、急性腹膜炎により高知の邸で死去。享年77。
□利正の仕事→主に軍人。
安政5(1858)年、普請方見習。その後、御普請方並御役銀方(土木工事の設計監督)〜文武館の造営などに参画。
戊辰の役(1868)年では小荷駄(輸送)の事と勘定方を司る。後年、陸軍の輸送関係と会計方面を担当することになる。仕事柄、東京、名古屋、熊本など各地を転々とする。熊本(明治14(1881)年〜約4年半)へは高知の新居に家族を残して単身赴任し、高知には一度も戻らなかった。
西南戦争にも参加(官軍の総合司令部の軍団会計次長。二等司契)。
明治19(1886)年、非職となり高知に帰る(利正50歳)。
明治22(1889)年、予備役に編入。
明治24(1891)年〜山内家の家務取扱を依嘱される。(家政に参与。高知に貴顕の来訪がある度に山内家で接待の役目を勤める。)
明治28(1895)年、一等監督(後の陸軍一等主計正)に任ぜられる。
日露戦争(明治37(1904)年〜)に召集された時は近衛の留守師団の会計部長を勤めた。
その他の公的な仕事として、赤十字社、招魂社、在郷軍人会に尽力。
彼(利正)の理財の才は寺田家を見事に再興させ、寅彦誕生の頃は、寺田家の資産はかなりのものとなっていた。寅彦が後年、近代市民生活を百パーセント満喫できる境遇で学問に精進できたのも、この父利正によって残された寺田家の財産が根本にあったからである。(*1) 利正、偉い!
□利正の食事 朝食はパン、昼・夕食は米食。酒はかなりいけたが、そのために胃を悪くしてビットル散を常用。ちなみに、寅彦は下戸ですが胃は悪いです。寅彦の胃病に関してはストレスのせいかもしれませんが、一方で弟子は寅彦の極度な甘党が原因だとも言っています。(宇田道隆著『寺田寅彦』アテネ文庫(弘文堂)より。2006.03.28に書きました。)
□利正の趣味と特技 器用で多趣味。胸中のうっせきを晴らすため(*1)?
・書画骨董の蒐集。
・花、園芸。(菊作りが上手。朝顔、盆栽なども。庭木では梅や楓をとくに愛した。)
・茶道。(不白流(江戸千家))
・謡。
・彫刻。
・彫金。
・鏨(たがね)。
・刀の目貫(めぬき)。
・書道。(能筆。孫の貞子(寅彦の長女)に習字を教えるが、厳格な教え方のため貞子は恐かったらしい。)
・盆石。
・計数に明るく、ソロバンもうまいが西洋数学は不得手。
・料理ができる。客を招くのが好き。座談もうまい。(茶席の簡単な料理や懐石料理は自分で作った。でも、妻が決まった時間に料理を運ばないと不機嫌になったので、家族や女中は来客があるとソワソワしていたらしい。)
・子供用の絵本、紙芝居もつくった。(身近な事件をマンガ化。女中は自分を描かれるのを嫌がっていたらしい。)
・南画。(号・五雲。師匠は川村雨谷。)
・孫の別役(べっちゃく)順のために画集もつくった。(「朝倉神社の縁日」「相撲」「ちゃんちゃんぼうず」「菊造り」「花模様」など。)
・家の設計。家相。(普請方をやっていたからこういうのは得意。)
・俳諧、連句に関しては陸軍の同僚数名と連句の会をやっていたこともあるが、寅彦のようにのめりこんでいたわけではなさそう。また、尺八の趣味はなさそう。
□利正と喜久馬、井口の刃傷事件
利正の弟の宇賀喜久馬は文久元(1861)年3月4日雨の降る夜、小高坂村井口(いのくち)あたりで刃傷事件に連座。上士(じょうし)と下士(かし)の対立、混乱を恐れた軽格側の慎重派が過激派を説得。池田寅之進、宇賀喜久馬を切腹させた。この時、喜久馬の介錯をしたのが実兄の利正(当時25歳)。事件以来ノイローゼになるほど利正の精神に深い影を落とし、一生トラウマになった事件。
喜久馬は当時19歳。有名な美少年であったらしく、「井口の刃傷」として芝居にもなった。この事件に関しては司馬遼太郎著『竜馬がゆく』、坂崎紫瀾(しらん)著『汗血千里駒』(坂本竜馬伝)にも描かれ、特に安岡章太郎著『流離譚』に詳しいそうですが、私はどれも未読です…。
寅彦は自分の親族の話とは明記していないものの、大正11年4月の『渋柿』に以下のような文章を書いています。利正はこの話をするのを極端にきらったから、母か祖母からの聞き伝えを寅彦が後年に書いたものらしい(*1)。『柿の種』に収録されており、青空文庫でも読むことができます。(「安政時代の土佐」などでページ内検索するとすぐ見つかると思います。) 短いものなので、以下全文を引用。
無題(三十七)
安政時代の土佐の高知での話である。
刃傷(にんじょう)事件に坐して、親族立会の上で詰腹を切らされた十九歳の少年の祖母になる人が、愁傷の余りに失心しようとした。
居合せた人が、あわててその場にあった鉄瓶の湯をその老媼(ろうおう)の口に注ぎ込んだ。
老媼は、その鉄瓶の底を撫で回した掌で、自分の顔をやたらと撫で回したために、顔中一面に真黒い斑点が出来た。
居合せた人々は、そういう極端に悲惨な事情の下にも、やはりそれを見て笑ったそうである。
不謹慎かもしれませんが、この話を読むと、映画『男はつらいよ』(第1作)の寅次郎が博の手ぬぐいで顔を拭いたら、印刷所で使っている手ぬぐいだったためインクがついていて、顔が真っ黒になってしまうという場面を思い出します。別に、寅さんと寅彦で「寅」つながりっていうわけでもないのですが…。
□利正の性格
刃傷事件の影響からか、内攻性のある、影のある人物(*1)。後年、気に入らないことがあると何日も口をきかなかったこともあるらしい。外面が極端によく(社交好き)、内面が極端に悪かった。特に妻に対して気難しく、寅彦は幼い頃から両親の不和に悩んだらしい(*2)。客人には愛想がよく、客が帰るとにが虫をかみつぶした顔に戻り、些細なことを色々と叱り飛ばす父親を見て、寅彦は絶対におやじのようにはなるまいと誓ったという。ただし、愛孫の貞子には決しておこらなかった(*1)。
養子の身分だから妻に「出て行け」と言えず、夫婦喧嘩をすると「俺は家を出てやる」と言ったらしい。貞子は14歳当時「どこどこへ行って家を作ってしまうぞ」と言ったのを聞いたらしい(*1)。
□利正の信心と親心
利正は尊王派。利正の代に寺田家は仏教から神道に改宗。
寅彦が病気になると、願をかけにお百度をふみ、お札を天上に貼って平癒の暁にはお礼まいりすると日夜誓っていたという。また、寅彦の病気平癒のため一番好きな牛肉をたち、一生これを口にしなかった。利正の信仰は物活論的であったけれども、その媒介をしたのは寅彦自身であったようである。(*1/同書に「利正は十二支の丑年のうまれであったが」との記述があるが、天保8年は酉(とり)年では…?)
利正の信仰心を見た寅彦が貞子にもらした言葉。「おじいさん(利正)が神棚の前でおがんでいる姿をみると、すさまじくてこわいようだ。」(*1) 祈られている息子にもおそれられる利正の信心って…。
最後に、『父・寺田寅彦』の寺田東一著「弥生町の頃」より私のお気に入りエピソードを一つ。
今から考えると一寸腑に落ちない話だが未だ電灯が無く石油ランプを使っていた。(中略)妹の弥生が生れた(明治四十五年)頃上京していた祖父のすゝめで、初めて五燭の電灯が灯った時は非常に嬉しかった。祖父は晩年の父と同じく総入歯だったが之を顎から外ずして私達を驚かしたりした。此時、父の撮った写真は未だ残っていて懐しいものである。
総入歯を外して孫を驚かせる祖父・利正、それを写真に撮る父・寅彦。寺田家団欒の図…?
■2006.04.04 【正岡子規の手紙】
疲れてくるといつも漱石宛の子規の最後の手紙の冒頭を思い出します。「僕ハモーダメニナッツテシマツタ、毎日訳モ無ク号泣シテ居ルヤウナ次第ダ」という部分です。そうすると、大分くたびれた気分でも、「子規と比べたら随分楽じゃないか」と思って、またえっちらおっちら動くことができるようになります。子規にしてみれば漱石にあてて書いた1通のプライベートな書簡でしょうが、その言葉や生き様からパワーをもらっている身としては、思い出すたびに感謝せずにはいられません。
まぁ、今日はそんなわけで、忙しい1日だったのです。ヨレヨレ…。
■2006.04.03 【寺田寅彦著 『柿の種』】 →青空文庫版
ここ数ヶ月の間、毎週のように図書館で『寺田寅彦全集』を借りてきてはぽつぽつ読んでいるのですが、やはり私は寅彦の随筆を読むのが好きです。特に岩波文庫でも出ている『柿の種』は、ひとつひとつが非常に短く、要点はおさえてあり、しかも味わいが深く、お気に入りの1冊です。ぷっと吹き出すようなおかしみのある文章なのに、落ち着いて考えてみると寅彦の言うように不思議だったり、考えさせられたりすることもあります。一度通読したので、今はぱっと開いて目に止まったところを読む感じです。ネットの青空文庫でも読めますが、文庫版の方が絵も入っているし、ふと気が向いたら開いて読むというのに似合っているのではないかな、と思います。電車や寝る前など、時間のない時にも気軽に読めるのではないでしょうか。
手元にある『寺田寅彦全集』(1997年版/第13巻「短章」)を今日ぱらぱらとめくっていて気に止まった部分を少々。
この頃は毎朝床の中で近所のラジオ体操を聞く。一二三四五六の掛声のうちで「ゴー」だけが特別に高く、長く飛びぬけて聞こえる。この「ゴー」の掛声が妙に気になる。妙に気恥ずかしくて背中がくすぐったくなるような声である。「ゴッ」と短く打切ってもらいたい。 (「曙町より(15)」 昭和八年八月『渋柿』)
たしかに、体操する時の掛声って「ゴー」って長く言うよね…無意識だったけど…。
ある問題に対して「ドーデモイイ」という解決法のある事に気の付かぬ人がある。何事でもただ一つしか正しい道がないと思っているからである。
「ドーデモイイ」という事は必ずしも無責任という事を意味するのではない。 (「断片(18)」)
面倒になると「どうでもいいや」と思ってしまうのですが、それもいいのか〜と思ったところをピシャリ。
相互に対して動きつつある二つの系の力学の矛盾は相対率によって解決された。異なる人生観を有する人間の間の融和は愛と同情による外はない。 (「断片(18)」)
■2006.04.03 【夏目漱石著 『坊っちゃん』】 →青空文庫版
ここ数日高知や松山のガイドブックを読んでいたらふいに興味がわいて、『坊っちゃん』を読んでみることにしました。初めて読むので、難しくないかな、最後まで読めるかな、と不安だったのですが最後まで楽しく読めました。よかった、よかった。読んでいる最中、坊っちゃんに勢いよくまくし立てられるような感じがしました。一人称なので、坊っちゃんが正しいんだか、坊っちゃんの思い込みなんだか、よくわからないこともありましたが…私の読解力不足かな。かといって、国語の授業のように細かく心理分析するような気もないのですが。
清に対するアレコレや、山嵐に氷水を奢られる、奢らせないのやり取りなど、興味深いところもありましたが、一番気になった場面は山嵐が買ってきた牛肉を食べる場面。
(坊っちゃん)「――君そこの所はまだ煮えて居ないぜ。そんなのを食ふと絛虫(さなだむし)が湧くぜ。」
(山嵐)「さうか、大抵大丈夫だらう。」
サナダムシ…! 時代を感じます。山嵐、大丈夫か〜!? サナダムシも今のように大したことではなかったのかな。
それから、天麩羅蕎麦の場面も好きです。
翌日何の気もなく教場へ這入ると、黒板一杯位な大きな字で、天麩羅先生とかいてある。おれの顔を見てみんなわあと笑つた。おれは馬鹿馬鹿しいから、天麩羅を食っちゃ可笑(おか)しいかと聞いた。すると生徒の一人が、併し四杯は過ぎるぞな、もし、と云った。
私も食べすぎだと思う…。
さて、ガイドブックで勉強した甲斐があって、地理がつかみやすくてよかったです。勉強してみるものですね。逆に、町から温泉まで歩いて30分位という情報を得られて満足。歩いて行けそうだなぁ…。(夢、膨らんでます。)
それにしても、夏目先生、もしかして学校の先生やるの嫌だったの? 田舎暮らしも嫌だったの? ねぇ、ねぇ…?
■2006.04.01 【『坊っちゃん』100年】
友人と高知旅行の夢を語っていたら、今年は『坊っちゃん』100年で松山で色々イベントがあるらしいという情報をもらう。松山…! せっかく四国まで行くのなら、松山も寄ってみたいけど遠いかな、日数的にも高知に絞った方がいいかな、と思っていた矢先にその情報提供! もしかして提案?(笑)
そんなわけでウキウキ気分でネットの旅行情報を検索していたのですが、そういえば私、『坊っちゃん』未読でした。いえ、ほとんどの漱石作品読んでいないのですが…。特に小説は高校時代に現代文の授業で『こころ』をかろうじて読んだ程度…。
世の中、知らないことだらけです。精進します。(開き直りか。)
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